オーパーツとかロスト・テクノロジーの話をしようぜ のまとめ全 64 件

1 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 06:53
なんかアメリカでは「古代宇宙人説」とか怪しいのが流行ってるようだが
要するに西暦1000年では出来なかったことが西暦200年には出来てたよってぐらいのことだ

歴史は一方通行に進んでいくわけじゃないからね
紆余曲折するんだよな
2 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 06:55
透明な骸骨の話なんかは割りとどうでも良いが
大きな謎とされているのは巨石建造物だ

ああいうのは異常に大きく重いんで運ぶのが現代の技術でも難しい
3 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 06:57
割と知られていないのだが巨石建造物なら日本国内にも結構ある
4 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 06:59
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E8%88%B9%E7%9F%B3%E9%81%BA%E8%B7%A1

酒船石遺跡(さかふねいしいせき)は、奈良県明日香村岡にある、いくつかの石造物からなる遺跡。

以前から知られている酒船石に加えて、平成12年(2000年)の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物および周辺の遺構を含めて酒船石遺跡と呼ぶようになった。
この命名は明日香村教育委員会によるが、研究者の間では酒船石と亀形石造物との関連性を疑う意見も強く、この名称は適当ではないとの意見も存在する。

この遺跡は、田身嶺(多武峰:とうのみね)にあった両槻宮の一部、あるいは両槻宮への入り口施設とする見解が有力視されている。
5 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:00

6 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:01

7 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:01

8 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:02

9 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:03
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E3%81%AE%E4%BF%8E%E3%83%BB%E9%AC%BC%E3%81%AE%E9%9B%AA%E9%9A%A0

鬼の俎・鬼の雪隠

鬼の俎(おにのまないた)・鬼の雪隠(おにのせっちん)は、奈良県高市郡明日香村野口(鬼の俎)・平田(鬼の雪隠)にある花崗岩の石造物。
宮内庁により欽明天皇檜隈坂合陵の陪冢に治定されている。
10 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:05
畑の中を通る遊歩道の脇の高台には「鬼の俎」が、遊歩道を挟んだ高台の麓に「鬼の雪隠」がある。
両者は直線距離にして数十メートル離れているが、元は1つの古墳の石室だったものが、盛土が無くなったうえ、二つに分かれてしまったものとされる。
元々は繰り抜かれた横口式石槨の石室(鬼の雪隠)とその底石(鬼の俎)であった。
底石(俎)には多数の穴が開けられており、割り取ろうとした形跡がみられる。
これは高取城建設の際に、石垣の石材として利用しようとしたためとみられる。

大きさは次の通り。

底石(俎):長さ約4.5m、幅約2.7m、厚さ約1m。
石室(雪隠):内幅約1.5m、高さ約1.3m。

言い伝えによると、風の森と呼ばれるこの地方に鬼が棲んでおり、通行人を騙してとらえ食べたと云われている。
「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したという。
11 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:08
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E9%82%A3%E5%9B%BD%E5%B3%B6%E6%B5%B7%E5%BA%95%E5%9C%B0%E5%BD%A2

与那国島海底地形

与那国島海底地形(よなぐにじまかいていちけい)は、八重山諸島の与那国島(沖縄県八重山郡与那国町)南部の新川鼻沖の海底で発見された海底地形である。

人為的に加工された海底遺跡と考える説もあり、この立場からは与那国海底遺跡、与那国島海底遺跡とも呼ばれる。

自然地形なのか、人工的な遺跡なのかについては後述の通り論争があるが、地質学者および水中考古学者の間では自然の造形との見解が圧倒的である。
12 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:10
1986年に、ダイバーによって島の南側海底に巨大な一枚岩が発見された。
「一枚岩」は周囲数百メートルに及ぶ巨大なもので、人工的に切り出したような跡や、
人がちょうど歩くことができそうな通路状の隙間、階段状の壁、柱が立っていたと思わせる穴など、人が加工しなければできないかのように思われる形状を備えていたため、遺跡ではないかと報道された。

1992年以来、琉球大学理学部教授であった(現在は同大学名誉教授)木村政昭を中心として調査が行われ、
1998年には沖縄県文化局に「遺跡発見届け」が提出されているが、沖縄県では、人が関与した痕跡があると判断できないとの理由で、遺跡として認定していない。

与那国町長は2016年3月に、学術的調査を行った上で、国の史跡、世界遺産、ジオパークへの登録への取り組みを検討することを表明。
調査事業は同10月13日に開始された。
この調査事業では、2016年度内に2回の検討会議を開き、文化財的な価値があると判断された場合は2017年度以降に本格的な調査を実施する方針であり、10月14日に行われた第1回検討会議では、出席した専門家は保護すべきとの意見で一致した。

観光的には、「遺跡ポイント」と呼ばれ人気のあるダイビング・スポットであり、自然地形であるか遺跡であるかはさておき、与那国島の貴重な観光資源となっている。
13 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:11
この地形の成因については、以下の通り、自然地形であるとする立場と、人工的な構造物であるとする立場からのいくつかの説がある。
しかし、そもそも遺跡説が考古学や地質学関連の学会で提示されていないこともあって、
両者の立場からの議論は沖縄県内の学者によるものにとどまっており、関連学会においては学術的検討の俎上にも載せられていない状況である。
また、発見時期が近年であることから、何者かが海中の地形を加工し捏造した可能性も捨てきれない。

琉球大学理学部准教授の中村衛や元沖縄県埋蔵文化センター所長の安里嗣淳らの複数の学者は自然地形説を採っている。

一方、人工的な構造物説を国内の学会において発表しているのは木村政昭らのグループのみであり、しかも、その学会も考古学や地質学を専門とするものではない。
木村に対しては、考古学的・地質学的調査が未実施、論文発表がない、学会外における報告書や出版物で精確な調査データを提出していない、図面を不正確に加工しているという批判がある。[要出典]
しかし、これらの批判に応じた報告書やデータの提供は行われていない。
14 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:15
ストーンサークル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AB
15 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:15
日本のストーンサークル

環状列石は、長径30 - 40メートルの隅丸方形に配石した遺構である。
一番外側に、二重・三重に川原石を環に並べた「外帯」と、多くの場合、その中心に「内帯」がある。「内帯」の内側は、直径5メートル内外の方形または円形の広場ができている。これらの配石の下に墓穴があったり、石列の間に土器棺があることが多い。
そして、環になっている石の一部が途切れ、幅2 - 3メートルの通路ができ、両側に石が並び外に続いている。

以上のような環状列石が、日本においては、現在までに主に青森県と秋田県北部、北海道では渡島半島を中心に道北を除く道内各地に検出されている。
血縁・地縁をもった氏族の連合が40 - 50キロメートルほどの距離をおいた領域を占有し、その中心に祭の場を築造したのではないか、と考えられている。
この遺跡が日本ではじめて公表されたのは1886年(明治19年)小樽市の忍路環状列石である。
16 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:16
東北地方から北海道にかけてのストーンサークルは縄文時代中期後半から後期にかけて作られている。
大きさは直径30メートル以上のものと直径10メートル以下のものがあり、大きいものは祭祀の場として作られ、
小さいものは竪穴住居の周囲に石を置いたものが多い。
直径が30メートル以上のものは、まず縄文時代中期の終わりごろに現在の静岡県、山梨県、群馬県付近で作られる。
続いて縄文時代の後期前半に秋田県北部や青森県、北海道西南部で作られる。
同じころ、岩手県では石を直線状や弧状に並べるものが作られている。

配石遺構は、縄文中期後半から後期になると各地で築造され、日本各地で発見例が増えてきている。
現在までのところ最も古いと考えられているのは長野県諏訪郡原村にある阿久遺跡の配石で、縄文時代前期のものと推定されている。
ドルメンが多いが、大分県には人間の背丈ほどのメンヒルを環状に並べた佐田京石がある。
17 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:19
起源

ストーンサークルの密集域が円筒土器文化圏(東だしウラル系民族に環状列石を造る文化は元来なく、
東アジアに環状列石を伝播させた集団はY染色体ハプログループR1bに属す集団と考えられる。
彼らはトカラ語派の担い手としてアルタイ地域まで到達していたことが明らかとなっており、アファナシェヴォ文化では、ストーンサークルを伴った墓槨がみられる。
その文化が東進して遼河文明に入り、ウラル系遼河文明人を介して日本にもたらされたと考えられる。
秋田県に多いJCウイルスEu-a2(JK)タイプもこの流れと共にもたらされた可能性がある。
18 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:21

19 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:21

20 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:22

21 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:22

22 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:22

23 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:22

24 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:22

25 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:34
マチュ・ピチュ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%81%E3%83%A5

マチュ・ピチュ(英語:Machu Picchu、ケチュア語:Machu Pikchu、スペイン語:Machu Picchu) は、15世紀のインカ帝国の遺跡で、アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根(標高2,430m)にある。

当時、インカ帝国の首都はクスコで、標高3,400mに位置する。
標高2,430mのマチュ・ピチュから、さらに約千メートル高い場所にその首都があった。
現在のクスコはペルー有数の都市でその市街地は世界遺産(文化遺産)である(1983年に登録された)。

なお、インカ帝国は1533年にスペイン人による征服により滅亡したが、
アンデス文明は文字を持たないため、マチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係・役割分担など、その理由はまだ明確にわかっていない。
26 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:36

27 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:36

28 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:37

29 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:37

30 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:37

31 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:37

32 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 07:41
巨石記念物

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E7%9F%B3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E7%89%A9

巨石記念物(きょせききねんぶつ、megalithic monument(s))は、自然石で、あるいは面取り・化粧仕上げなどの一部の加工のみが加えられた石で、築かれた構築物。
単一のものや後述するような列石など集合体の形態をとるもの、ストーンヘンジのような建造物に近い形態のものを指す。
世界中に分布し、伝播説もある。

「巨石記念物」という名称は、有史以来の全ての石造建造物を指すのではなく、新石器時代から初期金属器時代までの、特に「巨石使用」を特徴とする構築物についてこのように呼称する。
通常は、ピラミッドやジッグラトのようにある程度確立された工法による石組み構造の建築物は除外され、
やや原始的な文化という意味合いを持たせて、古代の構造物が単に巨石で築かれていることを強調して使用される用語である。
33 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:36
ストーンヘンジ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%B3%E3%82%B8

ストーンヘンジ(Stonehenge)は、ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石(ストーンサークル)のこと。
34 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:37
円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡である。
考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。
そして、それを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。

馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されている。
夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。
また、当時としては高度な技術が使われており、倒れないよう安定させるため石と石の間には凹凸がある。

遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂[疑問点 ? ノート]など、さまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていない。

この遺跡とその周辺は、30kmほど離れたエーヴベリーの遺跡群とあわせストーンヘンジ、エーヴベリーと関連する遺跡群として1986年にユネスコの世界遺産に加えられた。
また、登録古代モニュメントとして法的に保護されている。ストーンヘンジ自体は英国の国家遺産として保有・管理されている。
周辺はナショナル・トラストが保有している。
35 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:40

36 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:40

37 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:40

38 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:41

39 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:41

40 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:41

41 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:47
ギョベクリ・テペ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A7%E3%83%99%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%9A

ギョベクリ・テペ(トルコ語: Göbekli Tepe[1]) は、アナトリア南東部、シャンルウルファ(前ウルファ、エデッサ)の郊外(北東12km)の丘の上に在る新石器時代の遺跡。
遺丘の高さは15メートル、直径はおよそ300メートルに及ぶ。
地名は「太鼓腹の丘」の意。
標高はおよそ760メートル。
ドイツの考古学チームにより発掘調査が行われた。
発掘は1996年から始まり、チームの指揮を執ったクラウス・シュミット(Klaus Schmidt)が他界する2014年まで続いた。

ギョベクリ・テペの遺丘に残された構造物は紀元前1万年から紀元前8000年の期間に建てられた。
祭祀に用いられたと考えられるこれらの構造物には2段階の発達が見られる。

第一段階(先土器新石器A(英語版))では巨大な丁字型の石柱がいくつも円を描くように並べられている。
物理探査(リモートセンシング)により石柱の総数は200本以上、それらの描き出す円が20確認されている。
各石柱は6メートル以上、重さは20トン。それらが基盤岩に穿たれた穴にはめ込まれている。

第二段階(先土器新石器B(英語版))では石柱は小さくなり、磨かれた石灰の床を持つ長方形の部屋に立てられた。
遺丘の隣に位置し発掘調査が待たれている構造物は1万4000年から1万5000年前のものであることがトポグラフィック・スキャン[訳語疑問点]によって明らかにされた。
これはともすれば更新世を1000年遡行することになる。

先土器新石器B期が終わると遺跡は打ち捨てられた。
比較的新しい構造物にはギリシャ・ローマ時代のも見られる。

この構造物が何に使われていたのかははっきりしていない。
発掘に携わったクラウス・シュミットは初期新石器時代の神殿だと信じていた。
42 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:51
1963年にイスタンブール大学とシカゴ大学が共同で行った一般調査の中で初めてこの遺跡について記録された。
アメリカの考古学者ピーター・ベネディクトは遺丘に新石器時代の痕跡を認めたが、
ギョベクリ・テペを新石器時代の地層が東ローマ帝国時代、イスラム時代に墓地として覆われたものだと仮定した。

調査の記録のなかでは無数の燧石(フリント)について触れられていた。
そして巨大な石灰岩の石板、すなわち丁字型の石柱の地上に現れている部分は墓標であると考えられた。
遺丘は長い間農耕に晒されてきた。

幾世代にもわたる地元住民がしばしば邪魔な石をどかしては積み上げてきた。
その過程のなかで考古学上重要な遺構も破壊された可能性がある。

1994年、先んじてネヴァル・チョリでの発掘に携わっていたドイツ考古学研究所(German Archaeological Institute)のクラウス・シュミットは次なる発掘場所を探していた。
この地域の考古学の文献を見返しているとシカゴ調査団の残したギョベクリ・テペに関する簡単な説明が目に留まり、彼はもう一度調査をしてみようと決心した。
彼のネヴァル・チョリでの経験から、記述に残されていた燧石や石板が丁字型の石柱の一部であろうと見当をつけたものだった。

翌年、彼はシャンルウルファ博物館(Şanlıurfa Museum)と共同で発掘に着手した。
すぐに巨大な丁字型の石柱が姿を見せる。そのうちのいくつかは明らかに粉砕しようとしたような痕跡が見られた。
おそらく石柱を変哲の無い普通の岩と考えた農夫によるものである。

近くの新石器時代の遺跡ギュルジュテペ(ドイツ語版)(Gürcütepe)の発掘調査の開始は2000年を待つことになった[8]。
43 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:54

44 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:54

45 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:54

46 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:54

47 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:54

48 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:54

49 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:54

50 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:55

51 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 10:55

52 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 11:10
ナショジオのまとめ

やや物足りないが

http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20140801/410026/
53 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 11:13
プマプンク遺跡

https://okakuro.org/puma-punku/

南米はチチカカ湖。
標高は富士山の頂上より高い3890メートルに位置し、天空の湖と呼ばれる神秘の湖だ。

16世紀にこの付近を訪れたスペイン人征服者たちは、驚きを隠せなかった。
そこに彼らの知っている『遺跡』というイメージから大きく逸脱した遺跡を見たからだ。
54 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 11:15
ゆうに10トンは超えるであろう巨石があちこちの土に埋もれ、それらにはどのようにして加工したかもわからない精巧精密な細工が施されている。
巨大な基壇らしきもの。一枚岩で造られた巨大な門。並べられたH型をしたブロック。
pumapunku002_min 高原地帯で周囲に石もなく、木々さえも生えていない。
その荒野とも言うべき場所に、打ち棄てられた遺跡――過去には立派だったであろう建築物の廃墟群がひっそりと眠っていた。

この廃墟群はティワナクと呼ばれる。

ピーター・ジェイムズは著書の中でこう表現している。
「これほどの高度では過去も現在も人間の活動の痕跡はきわめて稀で、あったとしても風景に比べるとひどく見劣りがしてしまう。
だが、ボリビアのティアワナク遺跡だけは別だ」
55 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 11:19

56 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 11:19

57 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 11:19

58 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 11:19

59 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 11:19

60 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 11:20

61 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 11:20

62 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 11:21

63 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 11:21

64 1人目 名無しさん@おーぷん 2018-06-17 13:03
文庫本「アンティキテラ」は是非読んで欲しい
物凄くSF的で面白いから
引用元:http://toro.open2ch.net/test/read.cgi/sf/1529185990/
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